雲隠れ。
2006年 02月 13日
本日雲隠れ。腰痛に耐えながらの観能。狂言は若者ゆえの微笑ましさを思わせる客席からの反応。素っ頓狂な声を出すのって、ともすると品が落ちる。やれと言われたってできないけど。後見のビミョーな笑い顔が気になる。舞台が面白いのか、もともと笑い顔の造りなのか、見所に知り合いでもいたのか「なぜ笑いをかみ殺しているんだろう」という疑問を抱かせる。狂言以外、舞台上で笑いをかみ殺している顔って見苦しい。今日は他にはいなかったけど、関係ない場では特に気に障る(楽屋内なのか見所の誰かなのか原因がなんであれ舞台に立っている以上、現実と舞台とは峻別されるべきだ)。
「釆女」は、もともと「身分はどうあれ男の心変わりで池に身を投げるとは」なんたる不幸なことかと思っている。曲の雰囲気は好きだけど、内容は自分の考えを持ち出すと噛み合なくなるので雰囲気を楽しむ。小書がついて削られた箇所があったけど1時間半。想定内でも序の舞が終わる頃には悲鳴を上げたいくらい腰が痛かった。白と浅黄の装束のバランスが水から浮き上がるイメージだが、あぁあんなに純粋なイメージなんだなと別視点に気付く。上童という設定だからか。
「蟻通」は、見えない雨がとりあえず見えないと、ことの成り行きがわかりにくい。うっかり馬に乗ったまま神聖な場所に立ち入ろうとしたら急に雨が降って馬も踞って二進も三進もいかなくなる、というところから話が始まる。「傘を持って腕を上げ続けるのはどのくらいの苦痛を伴うか」が勝手に注目されるシテの登場に、見ているだけで腕がつりそうである。時に能の中では「これはあまりに」と思う型がある。お付きの者が太刀を持つときとか、今日みたいに烏帽子の分傘を高く掲げなくてはならないときとか。見ている側は何てことないように見ているけれど、まったくもって美しく見せる苦労は尽きない。私は歌の素養はないので、紀貫之が詠んだ歌のおかげで怒った神様が機嫌を直して雨をやませ馬を元気に戻したからには、「面白し面白し」なのだろう。
今日はどちらも心にゆとりがあると楽しめる。いわゆる一般のお能イメージに合う。友達がお能を観たいと先月言ってきたが、今日のは初めての人には勧められない曲である。だから来月の、嵐山と熊野に誘い一足早い桜狩りと洒落こもうということにした。さて3月上旬に、どれくらい春に近づいているだろうか。
「釆女」は、もともと「身分はどうあれ男の心変わりで池に身を投げるとは」なんたる不幸なことかと思っている。曲の雰囲気は好きだけど、内容は自分の考えを持ち出すと噛み合なくなるので雰囲気を楽しむ。小書がついて削られた箇所があったけど1時間半。想定内でも序の舞が終わる頃には悲鳴を上げたいくらい腰が痛かった。白と浅黄の装束のバランスが水から浮き上がるイメージだが、あぁあんなに純粋なイメージなんだなと別視点に気付く。上童という設定だからか。
「蟻通」は、見えない雨がとりあえず見えないと、ことの成り行きがわかりにくい。うっかり馬に乗ったまま神聖な場所に立ち入ろうとしたら急に雨が降って馬も踞って二進も三進もいかなくなる、というところから話が始まる。「傘を持って腕を上げ続けるのはどのくらいの苦痛を伴うか」が勝手に注目されるシテの登場に、見ているだけで腕がつりそうである。時に能の中では「これはあまりに」と思う型がある。お付きの者が太刀を持つときとか、今日みたいに烏帽子の分傘を高く掲げなくてはならないときとか。見ている側は何てことないように見ているけれど、まったくもって美しく見せる苦労は尽きない。私は歌の素養はないので、紀貫之が詠んだ歌のおかげで怒った神様が機嫌を直して雨をやませ馬を元気に戻したからには、「面白し面白し」なのだろう。
今日はどちらも心にゆとりがあると楽しめる。いわゆる一般のお能イメージに合う。友達がお能を観たいと先月言ってきたが、今日のは初めての人には勧められない曲である。だから来月の、嵐山と熊野に誘い一足早い桜狩りと洒落こもうということにした。さて3月上旬に、どれくらい春に近づいているだろうか。
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by saporterK
| 2006-02-13 01:42